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タイトル 明治十年丁丑公論・瘠我慢之説
別タイトル Commentary on the national problems of 1877
Sprit of manly defiance
明治十年丁丑公論・痩我慢之説
著者 福澤, 諭吉 (Author)
出版地 東京
出版者 時事新報社
出版年 1901 (明治34)
識別番号 福澤関係文書(マイクロフィルム版)分類: F7 A55
請求記号: 福 55-1 著作

[解説]

丁丑公論 西南戦争の勃発するや、それまで維新の元勲として盛名赫々たる西郷隆盛に関し、新聞雑誌の評論は掌を返したようにこれを乱臣賊子あつかいにしたのを見て、福沢は心中はなはだ不満の感を抱き、西郷をして死地に奔らしめた責任は明治政府に在りとなし、西郷の立場を弁護して政府の処置を論難したもの。福沢の「抵抗の精神」を見るべき文献として高く評価されているものである。
 明治十年西南戦争が鎮定した後に直ちに執筆したもので、久しく筐底に秘して人に示さなかったものである。その発表の事情は、石河幹明の序文に明らかであるが、明治三十四年二月一日から二月十日まで八回に亘り「時事新報」紙上に発表せられた。福沢はその二月三目に脳浴血が再発して長逝した。同年五月「瘠我慢の説」と併せて一冊として時事新報社から発売せられた。
 合本は四六判洋紙活字版、白の表紙に、「福沢先生著/明治十年丁丑公論/瘠我慢の説/時事新報社発行」の文字を四行に記し、これを飾り枠で囲んだ意匠で中扉に青と赤との色紙を用い、第一の中扉には「明治十年丁丑公論」と記し、石河幹明の序文二頁、緒言四頁、本文四十頁、第二の中扉には「瘠我慢の説/附/福沢先生の手簡及勝、榎本両氏の答書/ 瘠我慢の説に対する評論に就て石河幹明/福沢先生を憶う木村芥舟」と題し、石河幹明の序文四頁、本文二十九頁、附録二十五頁および十五頁、奥附一丁、その後に「福沢先生著書目次」及び「時事新報」広告が一丁つけてある。これも明治版全集刊行以後の著書なので十数版を重ねたもののようである。
 瘠我慢の説 明治維新の際における勝海舟、榎本武揚の両名の挙措を論じ、維新後における両名の出処進退を批判し、これを三河武士本来の面目である瘡我慢の士道に戻るものとしたもの。
 明治二十四年十一月二十七日に脱稿して数通の写本を作り、勝海舟、榎本武揚、木村芥舟、栗本鋤雲、徳川頼倫等に示した外、筐底に秘して余人に示さなかったものであるが、栗本等の手から本書の内容が洩れて、「奥羽日日新聞」に掲載された。その正確な年月日は明かでないが、明治二十七年前後の頃であったろうと伝えられている。同紙の社長友部伸吉が上京の際、昵懇の間柄であった栗本鋤雲を訪問して、本書の写本を示され、極秘のうちに全文を写し取り、これを持帰って、坊間の古本屋の店頭で発見した珍書で、何人が誰を批評したものか明かでないが、誠に珍しい大文章で、文天祥の「正気歌」や孔明の「出師表」にも比すべきものと思われるから、世道人心のためにこれを公けにする、という意味の前書きをつけて、著者の名も勝、榎本の名も欠字にして発表したということである。奥羽方面で非常な評判となり、二、三の新聞雑誌でこれを転載するものもあったので、自然にこれが福沢の耳目に触れるに到った。福沢も秘密が洩れた以上は公けにしてもよかろうと、側近の人々の勧めに従って「時事新報」に発表することを承諾し、明治三十四年一月一日と三目とにこれを掲載した。その予告を前年十二月の時事新報に掲げると、陸実等の政教社がスクープして、その機関誌「日本人」(明治三十三年十二月二十日発行) に「奥羽日日新聞」に掲載のままを転載した。この論説が「時事新報」に発表せられるや世上に頗る大きな反響を捲き起した。徳富蘇峰は一月十三日の「国民新聞」紙上に「屠我慢の説を読む」と題する一文を掲げて勝海舟のために弁護を試み、勝の行動は国際状勢による日本の破滅を防がんとする臨機の措置であると主張したが、福沢はこれを当時の外交事情を知らないための空談であるとして、石河幹明に当時の事情を語り聞かせ、同月二十五日の紙上にその駁論を発表させた。それが本書の附録となっている「瘡我慢の説に対する評論に就て」の一編である。また福沢の歿後間もなく三月三日の「時事新報」に掲載された木村芥舟の「福沢先生を憶う」の一文も、この書に関係があるからとて、併せて附録とし、明治三十四年五月に、前項に記した通り、「丁丑公論」と合本して出版せられた。


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