Digital Gallery of Rare Books & Special Collections
デジタルで読む福澤諭吉
各巻の解説



<検索 : 學問のすゝめ. 初編 >
タイトル 學問のすゝめ. 初編
別タイトル Encouragement of learning
学問のすゝめ
著者 福澤, 諭吉 (Author)
小幡, 篤次郎 (Author)
出版地 東京
出版者 福澤諭吉
出版年 1872 (明治5)
識別番号 福澤関係文書(マイクロフィルム版)分類: F7 A15-01
請求記号: 110X@520@1

[解説]

福沢の著述家としての態度に一転機を劃した代表的著作である。それまでの福沢は西洋の文物制度学術の客観的紹介者としての態度を持し、福沢のことばを仮りて言えば、「言はば文明一節づつの切り売り」をしていたのであるが、明治政府の施政方針も改進々歩の方向に定まり、新日本の進路の見きわめもついたので、従来の態度を一擲して、すこぶる大胆な態度で、旧思想の批判、新文明の鼓吹に乗り出した、その第一声ともいうべきものが、この「学問のすすめ」十七編のパンフレット・キャムペーンであった。
 明治十三年刊合本の序に「本編は余が読書の余暇随時に記す所にして、明治五年二月第一編を初として、同九年九年十一月第十七編を以て終り」と記されている通り、毎編「何れも紙敷十枚ばかりのもの」であるが、夥しい売行を示したので各種の版本があり、福沢の死後、今日に至るまで種々の形で覆刻されている。
 初論は、合本の序によって明治五年二月に刊行せられたものと知られるが、跋文には明治四年未十二月の日附がある。その初編の初版本が如何なる形のものであるかは、久しく研究家の問で論議されていたが、近年諸家の間で初版本と推定して誤りなかろうとほぼ意見の一致した一種の版本がある。それは大体四六版ぐらいの大きさ(一八× 一一・五㎝) の茶色表紙、本文西洋紙両面刷二十四頁、清朝体の活字二十三字詰八行に組んだもので、表紙の左肩に「学問のすゝめ 全」という文字をオーナメントで囲んだ題箋が貼ってある。本文第一行に「学問のすゝめ」次に「福沢諭吉 小幡篤次郎 同著」と記され、末尾の端書には、「余輩の故郷中津に学校を開くに付」学問の趣意を記して同郷の旧友に示すつもりで著したものを、人の勧めによって「慶応義塾の活字版を以て」印刷して出版したのであると述べ、巻頭と同様に「福沢諭吉 小幡篤次郎 記」と記してある。
 この清朝体活字本には刊行年月の記載がなく、合本序によって明治五年二月刊と推定するのみであるが、同年五月付で「愛知県発行、福沢諭吉述、学問のさとし」と題する偽版が出ている。この偽版は初編の本文をそのまま翻刻し、末尾の一節を県庁の役人が管下の人民に諭示するような体裁に書き改めている。
 この末段の一節を書き改めたのは、愛知県の庁吏の作為ではなく、これには原本がある。旧中津藩文書中に「見聞雑記」と題する写本綴がある(中津市立図書館所蔵)。その中に無標題で「学問のすすめ」初編の写本が収められているが、その末段の一節が右の愛知県偽版の改鼠と全く同文で、最後に「辛未十二月 元中津県」と記してある。私の所見は右の写本のみであるが、恐らくその原の版本が出たのではないかと思う。伝えられるところによれば旧中津県知事奥平昌邁の「勧学文」なる文書があって、他の諸県から旧中津県に照会が寄せられ、中津県からこれに対しその「勧学文」のコピーを贈呈している記録があるというから、それがこの「学問のすゝめ」の末段を書き改めたものではなかろうかと思われる。愛知県の偽版はおそらくこの中津県の文書を模して作られたものであろう。
 このように、この書が各方面から注目され、その需要も多かったので、慶応義塾出版局では、これを木版の和紙小型本(一五× 一一cm)に仕立てて再版した。これは夥しい売行を示し、版木も幾度か刷り漬しては新刻したものと見え、「同年申六月木版二改」と巻末に記してあるもので、時に版の異なるものを見受ける。
 この書が如何に全国的に迎へられたかを証する一例を挙げれば、角竹如山著「高山市史百話」(昭和三十一年刊) に「学問のすすめの配与」と題して次のような記事が出ている。
 明治六年五月十目附「里正詰所日記」に福沢諭吉先生の有名な著書「学問のすすめ」 を人口百人一冊見当に筑摩県庁より配与されたから有難く配分致せとの記事がある。 当時二十五大区長であった船坂雅平氏の目記に当大区に三百五冊配附されそれを大区 内の百八十一区へ四十八冊、百八十二区へ二十冊、百八十三区へ三十四冊、百八十四 区へ三十一冊、百八十五区へ六十一冊、百八十六区へ五十五冊、百九十四区へ五十六 冊を配分した記事が見える。明治六年十二月二日煥章学校の開校した当初は「学問の すすめ」が教科書として使用されて居た。(下略)
 右のように県庁が卒先して管下の人民にこの書を読むことを勧めたのは、当時政府の学制が発布されても、地方の寒村などでは容易に学校設立の運びに至らなかったので、県が進んで教育勧奨のために、この書を読ましめようとしたのであろう。またそうして設立された学校で、この書が教科書に採用されたのも当然の成り行きである。
 著作権の確立されていなかった時代であるから、「慶応義塾蔵版之印」の押捺されてない偽版も、各地で夥しく刊行された。前記の元中津県や愛知県のほかにも、県庁の手で偽版を作って管下の小学校教科書などに使用させたものは少なくなかった。福沢は偽版の横行は文運興隆の妨であるとの見地から、相手が官庁たると私人たるとを問わず、峻烈執拗な抗争を行って著作権を護り、必ず窮追して遁鼠することを許さなかった。日本に於ける著作権の確立は、この頃の福沢の抗争が与って大きな力のあったことは争えないところである。
 それから、福沢は「学問のすすめ」の初編を刊行するとき、最初から斯かるパンフレットを叢刊する意図は持っていなかったものの如く思われる。初めは単独の一冊として出版せられたのであるが、出してみると意外に売行がよかったので引続き二編以下を続刊する考えになったものと推察せられる。明治五年中に刊行せられているものは、すべて「学問のすゝめ 全」と記した題箋が貼ってあり、「明治六年四月真片仮名再刻」と奥書のある半紙四ツ折判(一八×一三㎝) の版本には二種類あって、一つは本文の第一行を「学問ノスゝメ」とだけ記してあるもの、他は「学問のスゝメ初編」と記し版心に「初編」の二字を掲げ丁数の記してあるもの、この二種類がある。前者は明治六年四月に片仮名交りに改刻のときまだ二編以下の続刊の考えがきまっていなかったことを示し、後者は同じ「明治六年四月真片仮名再刻」とは記してあるが、実際は二編の出た明治六年十一月頃になって、二編を出すにつき、これを初編と名づける必要が起り、新たに版を起したものと考えられる。二編の端書の終りに「先きに著したる一冊を初編と為し尚其意を拡て此度の二編を綴り、次で三、四編にも及ぶ可し」と記してあり、二編以下の刊行の間隔が殆んど一ケ月乃至三、四カ月に過ぎないのに、初編と二編との間に約二年に近い間隔があるところを見ても、初編の成立と二編以下の刊行との間には、福沢の意図に相当の相違のあったことが察せられる。
 二編刊行以後は、各編とも半紙四ツ折判の体裁で、片仮名交りの文体をもって刊行され、初編には「慶応義塾蔵版之印」、二編以下には「福沢氏蔵版印」が押捺され、十七編には前者を捺したものと後者を使ったものと二種類が見受けられる。次に初編以下を一覧表にしてみよう。
 初 編 明治五年二月出版(洋紙両面活版刷)、同年六月再刻(和紙木版小型本) 以上の二 種には初編の文字なく、題箋には「学問のすゝめ 全」とあり、いずれも平仮名交り 文。六年四月三刻(和紙木版半紙四ツ折判)片仮名文り文(以下すべてこの体裁)。この 版から初編の文字の掲げられているものと然らざるものとがある。
 二編 明治六年十一月出版 木版
 三編 明治六年十二月出版 木版
 四編 明治七年一月出版 従来すべて木版であったものが、この編から以後活版印刷に 変っている。誤植が相当にあり、誤字の右傍に一々活字を押捺して訂正している。
 五編 明治七年一月出版 活版
 六編 明治七年二月出版 この六編と次の七編とは、いわゆる楠公権助論の物議を醸し た問題の書で、それだけに売行も激しかったものと見え、活版と木版との二種類の版 本がある。活版技術の幼稚な、紙型などのなかった時代には、発行部数の多いもの は、活版は木版の便利に遠く及ばなかったのである。
 七編 明治七年三月出版 活版と木版
 八編 明治七年四月出版 活版
 九編 明治七年五月出版 活版
 十編 明活七年六月出版 木版
 十一編 明治七年七月出版 活版
 十二編 明治七年十二月出版 木版
 十三編 明治七年十二月出版 木版
 十四編 明治八年三月出版 木版
 十五編 明治九年七月出版 木版
 十六編 明治九年八月出版 木版
 十七編 明治九年 十一月出版活版 この最終の一編は再び活版に戻ったが、活字の形は 第四編以下の各編が三号大の本文と五号大の註活字とで組まれているのに対し、この 一編だけは四号大の活字が使用されている。この頃から慶応義塾内で新聞発行の計画 が進められていたから、そのために新しい活字が揃へられたのであろう。
 以上で各編の初版年月とその体裁を一覧したが、各編とも初版と全く同一の体裁で幾度か版を重ね、時には三冊づつ合綴して発売されたこともあり、明治十三年七月には、洋紙活版刷の合本が刊行せられ、これに「合本学問之勧序」が加えられた。其後慶応義塾出版社が時事新報を発行するようになり、従来の出版事業一切を福沢門下の中島精一が譲り受けたので、明治二十三年二月に中島が合本を再版した。久しい間、初等教育の教科書などに用いられて夥しい普及力を示したこの書も、合本再版の頃には他に適当な教科書類も刊行せられ、且つ明治十四年政変の後は福沢の著訳書を学校教科書に採用するの認可を政府が与えなかったことなどがあって、漸次売行も以前ほどではなくなったもののようである。


画像をクリックするとeBOOKが表示されます。 (※Flash Player 7以上をご利用下さい。)